日々思うことを少々 ー リクルートスーツについて考える

朝電車に乗ると、スーツを着た出勤途中であろうサラリーマンを見かける。
この時期になると、THE就活生と分かるリクルートスーツを着た若々しい顔が見受けられる。
そんな光景を見ていると「なんでみんなスーツなんだろう...」と単純な疑問が湧いてくる。
多様性が叫ばれる現代で、画一的な服装に身を包む理由はなんだろうか?


社会人にとってのスーツと就活生のリクルートスーツは意味が違うだろう。
そこでまず、リクルートスーツに関して少し考えてみる。


おそらく多くの人は、自然とリクルートスーツというものを受け入れるだろうが、リクルートスーツを着ることに疑問や抵抗感を感じる人は一定数いると思う。そんな人が、社会不適合者と言われるのかもしれないが、そんな人が変革を起こすこともある。
そんな話は置いておいて、とりあえずリクルートスーツというのは、いつ頃から始まったのだろうか?
ネットでチャチャっと検索すると、どうやら2003年頃かららしい(こちらの記事参照)。「第一印象によって、面接で落とされないように」過不足のない黒が選ばれそれが一般化していったらしい。
なるほど最もな理由かもしれない。


ここでリクルートスーツ反対派の意見を考えてみよう。
リクルートスーツ反対派の最も強い意見は、多様性がないということだろう。画一化された企画(リクルートスーツ)を受け入れることを社会的圧力としていることで、学生の個性が削がれるという考え方だ。
確かに、真っ黒でお揃いのリクルートスーツを着ている集団の中にいると気持ちが悪くなる。
よく言えば、社会的に対応している人、悪く言えば社会に流される人ってわけだ。
これでは、個性もへったくれもないと言われてもしょうがない気がする。
服装を考えなくて良い学生側としては気楽だが、それは大衆化したことによる安心感でしかない。


そんな意見に対して、ある就活イベントでどこかのキャリア支援系の企業の人がこんな反論をしていた。


「リクルートスーツは多様性を無くし、画一化しているという批判の声があるがこれは違う。なぜなら、リクルートスーツの着こなし方、例えばシワや汚れなどの手入れを見ればその人が現れているし、そこには個性が現れる。採用担当者はそこを見ているのだ。もし全員が自由な服装をしていたら、評価のしようがない。ゴスロリの人とタンクトップのキン肉マンをどう比べるの?リクルートスーツだったら、着こなしでその人の特性を簡単に比べることができる。」


完全に覚えているわけではないが、こんなことを言っていた。
なるほど、確かに良い反論だ。リクルートスーツという画一的なものを着ていたとしてもそれは全く同一ではなく着る人によって違いが出る。そこに違いを見るという発言だ。うむ、確かに良い。


皆さんはどう思っただろうか。


私にはこの2つの会話が根本的に噛み合っていない気がする。
前者と後者では、多様性の捉え方が異なるのだ。
前者では、リクルートスーツという1つの尺度を飛び越えた範囲での、多様性の話をしている。
後者は、リクルートスーツという1つの尺度内での、多様性・違いの話をしている。


求職者を面接で比較する際には、何か1つの尺度で比べた方が楽だし、明確だ。就職活動においては、その尺度の1つがリクルートスーツであり、SPIであったりするわけだ。
だが、前者が言っているのはリクルートスーツという範囲を飛び越えた多様性だ。リクルートスーツという尺度では見出せない違いを見出すことを想定している。
例えばだ、1つの尺度で比較するというのは、受験が1科目であるようなこと。英語1科目でもピンからキリまでいろいろな人がいる。英語だけなら受験者の比較を行うのは簡単だ。
1つの尺度ではなないということは、受験で複数科目であるようなものだ。英語も国語も、社会、化学、数学でも良い。英語が苦手でも、国語が強い人がいるかもしれない。これは、より範囲の広い多様性を明らかにすることができる。だが、問題点もある。英語と社会の点数を単純に比較できないことだ。平均点も標準偏差も異なるものを、単純に比較することはできない。この辺は、標準化(z化)すれば良いと反撃をくらいそうだが、それは今回無視しよう。


つまりだ、
リクルートスーツを着せるということは、求職者間の比較を行うには容易な手段と言える
しかし、真に多様性を求めるならリクルートスーツ 出ない方が、個々の個性が明確になる
ということだ。


最初に挙げた議論の食い違いは、1つの尺度では表しきれない多様性の話をしていたか、1つの尺度内での多様性の話をしていたのかということである。
話の前提が違っただけど、どちらの意見も正しいと言える。


いつも私の結論は白黒はっきりしなくなってしまうが、真実なんでものはいつも多数決で、絶対なんてないと思えばこのように考えること自体に価値があると思えるので、良しとしよう。


ここまで書いて私が今ある程度思うのは、リクルートスーツ は明文化されたルールではないということ。
たまに、面接の備考の欄に「リクルートスーツ 着用」と書いてあるがそんなところはごく一部だ。
つまり、リクルートスーツ というのはノームであり、絶対的なルールではない。
多数派が自然と生む同調圧力はいつの時代も存在する。
しかし、破るのも、自由だ。
そのルールに従うかどうかがすでに試されているのかもしれない。
多様性は与えられるものではなく、各人が選択した先にあるものだと思う。
社会的ノームの圧力にどう反応するか「別にルールではないのだから」と、それを無視できる人が増えれば本当に多様な世界へとつながっていく気がする。
かく言う私も、黒いYシャツにジーパンで出社している。こんな格好の人が増えたら、怖くて夜の街は歩けないかもしれないが、世の中の人がスーツばかりでなくもっと自由な格好をしたら、世の中はもう少し面白くなりそうだ。

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